ベーグルの穴から見えた日記

Stay Hungry. Stay Foolish.

2つ前の記事で紹介したスティーブ・ジョブズ氏のスピーチ、「こちらをどうぞー」って原文のリンクだけ貼り付けておくのは、あまりに無礼ではないかと思い、自分の勉強も兼ねて、訳してみました。

ま、このスピーチ自体2005年ですから、既にこれまであっちこっちで取り上げられてるわけで、「3年も遅れて何言ってんだ」って思う方もいるかもしれませんが。でも、内容が古くなることはないわけで。

ネットで検索かけて他の方の日本語訳を読んでくださった方は、またこれを読むこたあないんですが、「検索かけてまでは読まないけど、ここにあれば読むよ」という方もいるかと思って・・・。
しっかし、長かったーーー!! でも、さらりと読み流してた部分をよくよく読むことができたので、よかったです。
このスピーチの動画もたくさん世に出回っていて、それも見てみましたが、結構淡々としゃべってますね。医者との話の後の部分で少し言葉が詰まっているみたいに見えるのが、ちょっとぐっときちゃったけど。

ジョブズ氏も、相当気性の荒い、独特な、性格の方みたいです。多分、ここに書かれていることを本当に日々実践して生きているのでしょう。私は・・・少しずつ。

以下、2005年のスタンフォード大学卒業式でのスピーチです。

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皆さんが世界有数の大学から卒業されるこの日に同席できることをうれしく思います。私は大学を出たことがありません。実のところ、これが大学卒業というものに最も近づいた経験です。今日は、私の人生の中から3つの話をしたいと思います。それだけです。大したことではありません。たった3つの話です。

1つめの話は、点と点をつなげることについてです。私は、入って6か月でリード大学を辞めました。その後も、本当に辞めるまで18か月ぐらいの間は、ふらふらと大学に出入りしていました。ならば、なぜ辞めたのでしょうか?
それは、私が生まれる前にさかのぼります。私の生みの母は、若い未婚の大学院生で、私が生まれたら養子に出すと決めていました。彼女は、私は大卒の家庭に養子に入らなくてはならないと固く思っており、生まれたら弁護士とその妻の家に養子に入ることで準備が整っていました。それなのに、私が生まれた時、彼らは最後の最後になって本当は女の子が欲しいと言い出した。そこで、順番待ちリストに名前の載っていた私の両親のところに真夜中に電話が来た。「予定してなかった男の子が生まれてしまったんですけど、いりますか?」という質問に対し、彼らは、「もちろん」と答えた。生みの母は後になって、私の母が大学を卒業しておらず、父は高校も出たことがないと知って、養子縁組の最終用紙にサインを拒みました。数か月も経って、両親が私を必ず大学に行かせると約束したことで、やっと了解したのです。

17年後、私は大学に行きました。でも、馬鹿なことに私は、スタンフォード大学とほとんど同じぐらい学費の高い学校を選び、労働者階級の両親がそれまでに貯めたお金が、全て学費に消えていきました。6か月経って、私は大学に価値を見出せませんでした。私は自分の人生で何をしたいのか全く分からずにいて、大学がどうやってその手助けをしてくれるのかも分かりませんでした。それなのに、ここで自分は、両親が人生をかけて稼いだお金を全部食いつぶしている。だから私は、大学を辞め、全てはうまくいくはずだと信じることにしました。その時にはかなり怖いことでしたが、振り返ってみれば、あれは人生最良の決断の1つでした。大学を辞めた瞬間、私は興味のない必修クラスをとる必要がなくなり、おもしろそうなクラスにふらりと立ち寄るようになりました。

すてきな話ばかりではありませんでした。寮の部屋がなくなったので友達の部屋の床で眠り、コーラの空き瓶を持って行って5セントの預かり金をもらい、それで食べ物を買い、毎週日曜日の夜にはハーレクリシュナ寺院で週に1度もらえるおいしい食事のために街を越え7マイルも歩きました。あれはとてもおいしかった。そんなふうにして、自分の好奇心や直感から出会ったものの多くは、後になって、値段が付けられないほどの価値を持っていると分かったのです。その例を1つ挙げましょう。

リード大学は当時、おそらく国内最高のカリグラフィ教育を提供していました。キャンパス中の全てのポスター、引き出し1つ1つのラベルに至るまで、美しい手書きの文字でした。私は退学して、通常のクラスをとる必要がなかったので、カリグラフィのクラスをとって、その方法を勉強することに決めました。セリフやサンセリフ体といった文字の飾り方、文字列の組み合わせによりスペースの幅を変えること、素晴らしい文体を素晴らしい文体たらしめるものは何なのか。それは、美しく、長い歴史があり、科学ではとらえられないような芸術的な繊細さを備えた、魅力的なものでした。

こうした経験を私の人生で実用的に使うなんて望みはひとつも持っていませんでした。しかしその10年後、最初のマッキントッシュを設計している時に、その全てが私に戻ってきたのです。その知識の全てが、マックに注ぎこまれました。マックは、美しい文体をもった最初のコンピュータとなりました。もし大学でそのクラスに寄り道していなかったら、マックはいくつもの文体やスペース調整フォントの機能を持つことはなかったでしょう。ウィンドウズはマックの複製品でしかありませんから、パソコンがこうした機能を持つということはなかっただろうと思います。もし私が退学していなかったら、カリグラフィのクラスに寄り道することはなかった、そうしたら今ある素晴らしいパソコンの文体が存在しなかった。もちろん、大学にいた時に、先を見通して点と点をつなげることは不可能でした。しかし、10年後になって振り返ってみれば、それはとても、とても明確なことなのです。もう一度言います。先を見通して、点と点をつなぐことはできません。できるのは、振り返ってつなぐことだけです。ですから、点は将来、何らかの形でつながるはずだと、信じていなくてはいけません。本能、運命、人生、カルマとか、何でもいいから、信じていなくてはいけません。この考え方が期待外れに終わったことは一度もなく、私の人生を全く違うものにしてくれています。

2つめの話は、好きの気持ちと失うことについてです。

私は幸運でした。人生の早い段階で、自分の好きなことを見つけました。20歳の時、私はウォズと共に、両親宅の車庫でアップル社を始めました。私たちは懸命に働いて、10年のうちにアップル社は車庫に2人の状況から、4,000人超の社員を抱える20億ドル規模の企業へと成長していました。最も洗練された創造物、マッキントッシュを1年前にまさに世に送り出したところで、私は30歳になったところでした。その時に、私は解雇されたのです。自分が始めた会社から、どうやって解雇されるというのでしょう? それはですね、アップル社の成長に伴って、私は、共に会社を運営する才能を持つと見込んだ人物を雇いました。最初の1年ぐらいはうまくいきました。でも将来の展望に相違が見られるようになり、最終的には、亀裂が生じました。その時に、取締役会は彼のほうを支持したのです。それで、30歳で私は追い出されました。しかも、公に追い出されたのです。私が大人になってからの人生全てを賭けて取り組んでいたものを失ったのですから、壊滅的でした。

数か月の間は、何をしていいか全く分かりませんでした。私は、これまでの起業家たちを失望させたと感じていました。渡されたバトンを、自分が落としたのだと。デイビッド・パッカードやボブ・ノイスに会って、こんなふうにめちゃめちゃにしてしまったことをお詫びしようとしたりもしました。誰もに失敗者として知られた私は、シリコンバレーから逃げ出そうとすら考えました。しかし、何かがゆっくりと、私の中で分かり始めました。私はまだ、自分のしていたことを好きだったのです。アップル社での展開の後でも、その思いは少しも変っていませんでした。拒絶されたけれども、それでもまだ好きだったのです。そして私はもう一度始めることに決めました。

その時には分かっていませんでいしたが、アップル社を首になったことは、私の人生で最もよい出来事だったのです。成功し続けることの重圧が、もう一度最初から手探りで始める身軽さに替わったのです。私は解放され、人生の中で最も創造性にあふれた時期を送ることができました。

その後5年間に、私は、ネクスト社という会社を作り、ピクサー社という会社を作り、後に私の妻となる驚くほど素晴らしい女性と恋に落ちました。ピクサー社は、世界初のCGアニメーション作品、トイ・ストーリーを手掛け、今では世界で最も成功したアニメーション・スタジオとなりました。驚くべき展開で、アップル社がネクスト社を買収することで私はアップル社に戻り、ネクスト社で私たちが作り上げた技術は、現在のアップル社復興の核となっています。ロレーヌと私は、素晴らしい家庭を築いています。

これらの全ては、もし私がアップル社を首になっていなかったら、起こっていなかっただろうと私は強く思っています。薬の味はひどいものでしたが、患者にはそれが必要だったのでしょう。人生は時々、頭をレンガで殴るようなことが起こります。信念を失ってはいけない。私は、私を前に進めるたった1つのことは、今やっていることを好きになることだと確信しています。あなたの好きなことを見つけなくてはいけません。仕事でも、恋人でも、同じことです。仕事の時間は人生の多くを占めることになります。真の満足を得るたった1つの方法は、良い仕事だと自分で信じられる仕事をすることです。良い仕事をするたった1つの方法は、自分のしていることを好きになることです。もしそれがまだ見つかっていないなら、探し続けてください。そこで収まってはいけない。心が求める全ての物事同様、出会った時には分かるものなのです。そして、よい関係というのがそうであるように、年を重ねるごとにどんどんよくなるばかりなのです。だから、見つけるまで探し続けてください。そこで収まってはいけない。

3つめの話は、死についてです。

17歳の時、次のような引用文を読みました。「もし、これが最後の日だと思って1日1日を過ごすなら、いつか必ずその通りになる日が来るだろう」。この言葉は印象深く、それ以来33年の間、私は毎朝、鏡を見てこう問いかけています。「もし今日が人生最後の日だったら、今日やろうとしていることをしたいと思うか?」と。そして何日も続けて答えがNoであれば、何かを変える必要があると分かるのです。

自分はすぐに死ぬのだと常に知っていることは、人生において大きな決断をする際に助けとなるツールとして、これまでに手にした最も重要なものです。ほとんど全てのもの、例えば、あらゆる外部の評価、あらゆるプライド、恥をかくことや失敗することへのあらゆる恐れ、こうしたものは死の前にあってはどこかに消えてしまいます。残るのは、本当に重要なものだけです。自分はいつか死ぬという意識は、自分は何かを失ってしまうという誤った考えの罠を抜ける、知る限り最良の方法です。あなたは既に裸なのです。心に従うことを拒む理由はありません。

約1年前、私は癌と診断されました。朝の7時半にスキャンを受け、すい臓に明らかに腫瘍があることが示されました。それまで私は、すい臓が何なのかも知らずにいました。医師が私に、この腫瘍は治療不可能な型であることがほぼ確実です、余命は最高で3か月から6か月と思ってくださいと告げました。医師は私に、家に戻り、身辺整理をすることを勧めました。つまり、死ぬ準備をしなさいという医師の暗号です。つまりそれは、子どもたちに、今後10年間で言おうと思っていた全てのことを、数か月で言おうとすることです。それは、全てをきっちり確実に整えて、家族にとってできる限り簡単に事が運ぶようにしてあげることです。それは、さよならを言うということです。

その診断を聞いてまる1日を過ごし、その夜遅く、生検が行われました。内視鏡を喉から胃、腸へと入れていき、すい臓に針を刺して腫瘍から数個の細胞を採りました。私は沈静状態でしたが、そばにいた私の妻によると、医師は採取された細胞を顕微鏡で見て、叫び始めたそうです。なぜなら、それが大変稀な種類のすい臓癌であり、その種類は手術で治療可能だったからです。私は手術を受け、今は元気です。

これが、私が死に最も近づいた経験です。今後数十年間、これ以上死に近づくことがないよう祈っています。このことを乗り越えた今、死というものを役立てながらもそれがただの知的な概念でしかなかった頃よりも、もう少し強い確信を持ってこれを言うことができます。

死にたい人などいません。天国に行きたいと思う人でも、そのために死にたいとは思いません。しかしながら、死は私たち皆が抱える運命です。そこから逃れた者はいません。また、そうあるべきなのです。なぜなら、死こそが、生の唯一にして最良の発明であると考えられるからです。それは、生による主体の変革なのです。新しいものに道を作るべく、古いものを取り除くことなのです。今の瞬間、新しいものというのは、あなた方です。でもいつか、そう遠くないうちに、あなたは次第に古いものとなって、取り除かれる。こんな劇的な話になってしまって申し訳ないけれど、これが本当のところなのです。

時間には限りがある。だから、他の誰かの人生を生きてその時間を食いつぶしてはならない。決まりきった定説の罠に嵌ってはいけない。それは、他の人の考えた結果と共に生きていることなのです。他者の意見という雑音に、自分の内なる声をかき消されてはいけない。そしていちばん重要なのは、自分の心、自分の直感に従う勇気を持つことです。どうしたことか、あなたの心や直感は、あなたが本当になりたいものを既に知っています。それ以外のものは、全て二次的なことです。

私が若い頃、The Whole Earth Catalogという名の驚くべき出版物がありました。この本は私たちの世代の人間のバイブルの1つでした。この本は、スチュワート・ブランドといいう人物により、ここからそう遠くないメンロパークで作られ、彼の詩的な文体によって形づくられていました。それは1960年代後半で、パソコンやコンピュータによる出版作業が登場する前のことですから、全てタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラだけで作られています。その本は、Googleが登場する35年前にして、Googleのペーパーバック版といった感じのものでした。理想主義的で、端正なツールや優れた考えの洪水でした。

スチュワートと彼のチームによるThe Whole Earth Catalogは、数回号を重ね、その後ひととおりやり終えたところで最終号を出しました。それは1970年代半ばのことで、その時私はあなたと同じ年でした。最終号の背表紙には、早朝の田舎道の写真がありました。冒険好きな人ならヒッチハイクをしていて出会いそうな道です。その下に言葉が書かれています。「Stay Hungry. Stay Foolish.(ハングリーであれ。愚かであれ。)」それが彼らの別れのメッセージでした。Stay Hungry. Stay Foolish. そして私はいつも自分自身そうでありたいと願っています。今、卒業して新しい一歩を始めるにあたって、私はあなたもそうであってほしいと願っています。

Stay Hungry. Stay Foolish.

ありがとうございました。
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